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2012年6月20日 (水)

乗物の町

JR神田駅東口から東へ150m程進むと神田北乗物町という町がある。決して大きくないサイズ(約130m×約45m)のこの町を印象深くさせるのは何と言っても町名に含まれる「乗物」の文字だ。

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町名の由来については、以下の経緯があるようだ。
① 慶長年間(1596~1615)に、現在の鍛冶町1丁目の一部に駕籠(かご)職人が多く居住するようになり、乗物町という町ができた。
② 同じく慶長年間に、日本橋に新乗物町が出来たことから、明確化のため、元乗物町とした(新乗物町は現在の中央区日本橋堀留町1丁目の一部)。
③ 1683年(天和3年)及び1719年(享保4年)、いずれも火災で類焼した土地が火除地として召し上げられ、代わりに現在の神田北乗物町の一部に代地(元乗物町代地)が与えられた。
④1869年(明治2年)、元乗物町代地・兵庫屋敷代地・神田紺屋町2丁目横町代地が統合し北乗物町となった(一方、元乗物町の残った部分(元乗物町元地)は同年、兵庫屋敷と統合して南乗物町となった。南乗物町は1933年(昭和8年)に鍛冶町1丁目に統合した)。
⑤ 1947年(昭和22年)、旧神田区と旧麹町区が統合し、千代田区となるにあたり、神田北乗物町となった。

江戸の巨大な消費を支えていた日本橋には全国から様々な商品が集積し、消費動向や嗜好に応じた商品が取り扱われた。それを取り巻くように、神田や京橋など日本橋周辺には乗物町のような職人町が多数形成され、江戸の旺盛な需要に応える商品の生産拠点となった。

江戸時代の記録によると、神田には乗物町の他、鍛冶町(金属加工)、紺屋町(染物)、新銀町(銀細工)、蝋燭町、竪大工町・横大工町、塗師町、上白壁町・下白壁町(左官)、鍋町(鋳物)、新石町、材木町、新革屋町といった職業や取り扱うものを町名の由来とする町が存在した。神田北乗物町の他、鍛冶町・神田鍛冶町、神田紺屋町・神田東紺屋町は現存する。
また京橋には、大鋸町、南鞘町、具足町(武具)、炭町、本材木町、 南槇町・北槇町、桶町、南大工町、南鍛冶町、畳町、南紺屋町・北紺屋町・西紺屋町、弓町、鎗屋町、南鍋町といった町が存在した。

職人町の形成は、一般的に職人頭が居住地兼仕事場に配下の職人を居住させたことによるとされる。その中には幕府が職人頭に土地を与えたケースも少なくない。神田にある鍛冶町は、慶長年間(1596~1615)に鍛冶方棟梁の高井伊織が幕府より拝領された土地に鍛冶職人が集まった町である。また紺屋町は同じく慶長年間に活躍し、幕府より関東一円の藍の買付けを許された紺屋頭の土屋五郎右衛門の元に配下の染物職人が多数住んだ町である。

(千代田区神田北乗物町)

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